マリウス・トバ

生年月日: 1968年1月9日
出身地: ルーマニア・レシーツァ
所属クラブ: TKハノーファー
コーチ: ラインハルト・リュックリーム
趣味: 空手(!)、写真
家族:
妻のリビア、息子のアンドレアス(1990年生まれ)、娘のサブリナ(1995年生まれ)
ルーマニアに姉が住んでいる。

国際試合での成績:

1986年欧州ジュニア選手権 つり輪優勝、床2位、鉄棒3位、個人総合4位
1988年アメリカンカップ 個人総合優勝
ソウル五輪団体メンバー(ルーマニア)
1992年欧州選手権 つり輪5位
1994年欧州選手権 団体3位
世界選手権 団体5位
1995年世界選手権 つり輪4位
1996年欧州選手権 つり輪2位
アトランタ五輪 つり輪5位、団体7位

国内試合での成績

1992年ドイツ選手権 床、つり輪、平行棒、鉄棒優勝、個人総合3位
1994年ドイツ選手権 個人総合優勝、つり輪2位、跳馬、平行棒、鉄棒3位
1996年ドイツ選手権 つり輪、平行棒優勝
1997年ドイツ選手権 つり輪2位、個人総合、あん馬3位

楽しむことが続けること

1994年のドイツ選手権で、マリウス・トバは鉄棒の着地を決めると、くるりと回ってひざまづき、観客に投げキスをした。それは彼がスター選手のアンドレアス・ベッカーを抑えてドイツチャンピオンとなった瞬間だった。その持ち前の明るさは、彼の体操への動機への一つでもある。だから30を過ぎた今でも、トップにい続けることができるのだ。

一つの事故が彼の人生を変えた

マリウスは1984年、1986年の欧州ジュニア選手権でいくつかのメダルを手にした、ルーマニアの才能豊かな選手だった。さらに1988年には、アメリカ以外の選手が優勝することは難しいといわれる試合、アメリカン・カップで優勝した。しかも当時東ドイツのスベン・チッペルトを抑えてである。マリウスはその後もルーマニアのエースとして活躍することができただろう。

しかし1989年のことだった。つり輪のトレーニング中にマリウスは肩を大怪我してしまう。ルーマニア体操協会の関係者はそんな彼に残酷に言った。「怪我をした選手は必要ない」。そこでマリウスは体操を続けることの出来る国を探した。その時、当時西ドイツのアンドレアス・アギラーが世界選手権のつり輪で優勝した。マリウスはアギラーが自分と同様に、肩の大怪我をしたことがあることを知った。「アギラーがいるなら、彼のいるハノーファーのクラブはいいに違いない」そう思ったマリウスは、ハノーファーの生活を選んだ。アギラーはまた、マリウスの移住を手助けした。最初、マリウスは子供たちのコーチとして働いた。「子供たちは正直だよ。もし僕のドイツ語が間違っていたら、ちゃんと指摘してくれる。これは僕にとって、ドイツ語を習ういい手段だった。それに、ハノーファーのドイツ語は訛のない、一番標準的な言葉だからね。それもここに住もうとした理由の一つだよ」それはドイツ統一のわずか前の事だった。「だから自分は"ウェッシー"(旧西ドイツ人の別称)だと思ってる」とマリウスは語る。

かつての祖国のために

マリウスは決してかつての祖国、ルーマニアを忘れない。休暇にはかならずレシーツァの両親と姉を訪ねる。この町の状況はまだ厳しい。多くの人々が貧困に苦しんでいる。そこでマリウスは支援活動を始めた。ハノーファーで衣服、電化製品、そしてスポーツ用品といった支援物資を集め、ルーマニアに運び込む。国境の税関所の人間はマリウスを良く知っている。だから1.5トンもの支援物資を積んで国境を渡ることに何の問題もない。今やレシーツァの人々は、彼のフォルクスワーゲンが着くのを楽しみにしている。そしてハノーファーだけでなく、ナショナルチーム全体の仲間がマリウスの支援活動に手を貸している。

この支援活動に興味を持たれた方は、メールを下さい。


マリウス・トバと奥様のリビアさん(そして、おじゃま虫のベレンキ)
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Katja Pfeilinsel
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